日本の焼き物文化の中で、約1300年の歴史をもつ多治見市。
その歴史の中で白い食器の産地であり続けた岐阜県土岐郡笠原町(現多治見市滝呂町)。滝呂地区の焼き物生産は、室町時代の山茶わんに始まります。16 世紀には滝呂日影窯という大窯で天目 茶わんなどが焼成され、江戸時代には京都の聖護院に御用焼を納めたという記録も残されています。明治 時代に入ると、いち早く輸出への転換を図り、コーヒーカップ&ソーサーなどの洋食器生産を始めます。また、新し い技術の導入にも積極的で、登り窯から石炭窯への転換が美濃窯の中で最も早い地区でした。
そんな土地で生まれ育った初代創業者松原朝一は大正5年9月(1916年)に白素磁に一番適した石炭窯を築きマルア製陶所として創業しました。 日本の喫茶店第一号が明治21年(1888年)に東京.上野に誕生したとされ、この頃から一般層にも少しずつ普及し始めたコーヒーを飲む器に朝一は着目し日本国内では早い時期よりコーヒー・ティーカップ&ソーサーを専門に生産を開始します。ここから丸朝製陶所カップ&ソーサーの歴史は始まります。
そして1951年1月4日二代目松原平太郎はマルア製陶所を法人化、有限会社丸朝製陶所としこの頃より本格的に陶磁器を生産してそのほとんどを海外へ輸出し始めました。
その8年後の1959年、滝呂町の地にあった石炭窯を止め現在の多治見市星ケ台に重油によるトンネル窯を築くと同時に設備の近代化をはかり増産体制を取ります。その生産数は1日にカップ&ソーサーで約2万個という今ではない計り知れないような数の陶磁器を生産していました。もちろんすべてOEMによる製品です。
1991年三代目松原朝男が社長となり翌年に全自動ファイバーシャトルキルンを導入し以前の量産体制から少量多品種へと生産をシフトします。
松原圭士郎 (株)丸朝製陶所